現代日本では、多くの人が白米を主食としています。中には玄米や分づき米を食べる人もいますが、主食としているのが米(イネ)を柔らかく調理したものであることは変わりません。このように日本人の主食として米(イネ)が定着していったのはなぜなのでしょうか。

 

今回は、日本におけるお米の歴史についてご紹介します。

日本のお米のルーツは?

日本で一般的に食べられているお米は「アジアイネ」のうち「ジャポニカ米」で、他のアジアイネにはインディカ米があります。短く円形に近い形状と、炊くと粘りとツヤが出るのが特徴です。ジャポニカ米の起源は中国の「福建米(ふっけんまい)」だったと考えられおり、中国の「長江」の中〜下流域で栽培されていたものが、縄文時代に日本に持ち込まれたとされています。

 

イネや稲作技術の伝播経路には数多くの説があり、「中国の江准地帯(長江・准河の間)から朝鮮半島南部を経て伝播した」「長江下流部から直接九州に伝わった」などと伝えられています。いずれにせよ、大陸から東シナ海を通じて日本に渡ったことは間違いないと考えられています。


日本のお米の歴史を知ろう
大陸から伝わったお米は、その後どのように日本国内で栽培され、全国に伝わっていったのでしょうか。日本のお米の歴史を、縄文時代から現代にかけて見ていきましょう。

縄文時代〜飛鳥時代

約3,000年前、縄文時代後期には既に大陸から稲作が伝わっていたことが分かっています。その前はトチ、ナラ、クルミ、クリ、カシなどの堅果類、つまりドングリを食べていました。さらに数百年後と考えられる、福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見され、これらは日本における水田稲作の証拠と考えられています。

 

板付遺跡や菜畑遺跡の水田では、きちんと整備された形で水稲耕作が行われていたらしく、しかも、同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されました。つまり、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来、稲作を行っていたと考えられます。ただし、この頃は米を煮て調理していて、今で言う「お粥」が食べられていたようです。

 

弥生時代になると、稲作技術は急速に日本列島を東へ伝播していきます。もっとも有名なのは静岡県登呂遺跡で、田下駄、鍬、鋤、農耕具、堅杵などの農具が発見されました。北九州〜東海地方にかけて同じような土器文化が見られていますので、200〜300年くらいで急速に稲作技術が普及していったことが推測されます。弥生時代の中期には、青森県南津軽郡の垂柳遺跡でも水田跡が発見されたので、北海道を除く日本列島の広範囲で水田耕作が行われていたと考えられます。

 

つまり、弥生時代は、主食がそれまでの堅果類から米に代わる転換期だったと考えられています。弥生時代に入ると、お米を蒸して調理して食べるようになり、これは「強飯(こわめし、こわいい)」と呼ばれています。こうして米の普及と伝播によって、養える人口が増え、日本人の栄養状態も良くなり、体格も良くなりました。

 

しかも、米は他のどの栽培植物よりも収穫量が多かったので、米を持つものは富と権力を非常に早く持つことができました。これにより、古墳時代ごろから徐々に地域国家から中央集権国家へと移行し、これにしたがって貴族と庶民との格差も開いていきました。すると、米は田に対する税として納められるものになっていったのです。

 

奈良時代〜平安時代

奈良時代になると、白米は一般的な主食となりました。そのことを示す木簡が都跡から出土しています。ただし、これは貴族の間のみのことで、玄米をついて精白した「白米(しらげのよね)」というお米は、身分の高い人の間だけで食べられていました。庶民はもっぱら「黒米」と呼ばれた精白度の低いうるち米を食べていたようです。時にはアワやヒエと混ぜて食べることもあったが、玄米は食べていませんでした。

 

現代と同様の主食+副食というスタイルは、1日2食ではあるものの、既に奈良時代に「常食」として確立していました。ごはん(米)を主食に、汁物とおかずがそれぞれ一品ずつという一汁一菜が基本で、おかずは多くて二〜三菜でしたが、貴族の宴会などでは多くのおかずが並んでいたようです。

 

平安時代の貴族の食膳は、高杯に高盛りのごはん、まわりにおかずのお皿を並べる「おもの」と「あわせ」というスタイルでした。この「あわせ」の数が多いことから「かずもの」と呼ばれ、やがて「おかず」と呼ばれるようになったのです。日本人は既にこの頃から、おかずが少量でも種類が多いことに重点を置いていたと考えられます。逆に、おかずの品数を少なくする代わりに主食と漬物の量を増やし、味噌汁を添えるのが庶民の暮らしでした。この傾向は第二次世界大戦前まで続きます。

 

平安末期ごろから、鉄や高温で焼いた陶器や瓦器の釜が普及してきて、お米を「炊く」ようになり、炊いたお米は柔らかいので、「強飯」に対して「姫飯(ひめいい)」と呼ばれるようになりました。


鎌倉時代〜江戸時代

鎌倉時代〜室町時代には牛馬耕や二毛作の技術、水車などを利用した灌漑施設の整備、肥料の発達などで生産力がアップしました。当然、大量の人手が必要になったことから、村の共同生活のローカルルールが生まれます。

 

江戸時代中期になると、従来は見られなかった分厚いふたをつけた釜が普及し、美味しい飯の炊き方が定着します。新米、古米によって水の量を加減し、水分を米が吸収してしまうまで炊く「炊き干し法」が完成し、「初めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いてもふたとるな」という現代まで伝わる美味しいお米の炊き方が言われるようになったのもこの頃とされています。

 

同じ頃、1日3食の習慣も定着してかなり現代に近い食生活が完成します。そして、江戸時代後期ごろから、お米の品種改良が行われるようになりました。

明治時代〜現代

明治政府は税の徴収を米からお金に変え、明治36年からは、近代国家として農作物の生産力を上げるため本格的な品種改良がスタートしました。日本で初めて品種改良で作られたのは、大正10年の「陸羽132号」(1921年、国立農業試験場で日本初の人工交配による水稲)です。農学校で教鞭をとっていた詩人宮沢賢治も「陸羽132号」の普及に努めたとされています。

 

現在、日本でもっとも流通している「コシヒカリ」は、昭和31年に生まれました(農林100号)。品質や食味に優れ、当時もっとも深刻な病気だった「いもち病」に強かったため、各地で生産が進み、昭和54年以降は30年以上連続で作付け面積第1位を誇っています。

 

その後もどんどんお米の品種改良は進み、2019年現在、国に品種登録されているもので500種類、そのうち主食になるごはん用として作られているものだけでも271種類もの品種があります。さまざまな農家や専門機関が日々、美味しいお米を研究していますので、ぜひ自分の好みのお米を見つけてください。

 
銘柄米の誕生秘話(アーカイブ)に興味のある方はこちら

まとめ

日本で食べられているお米は主にジャポニカ米で、約3,000年前に大陸から稲作技術とともに伝わってきました。その後、日本中に伝わり美味しい炊き方や品種改良がなされ、現在の主食のごはんとなっています。主食とされるお米だけでも250種をゆうに超えますので、実に様々な味わいや食感のお米があるはずです。ぜひ好みのお米を見つけてみてください。

(おいしいごはん研究チーム)

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