きらら397、ななつぼし、ゆめぴりかというブランド米でブレークした北海道米。今や米の一大産地として知られるようになったが、厳しい気候のため、明治時代には稲作不適地として栽培を禁止されたり、戦後は北海道米=不味い米という烙印を押されたりという過去を持っている。そんな状況にも不屈の精神で立ち向かい、うるち米ブランドを定着させただけではなく、もち米では生産量、品質ともに日本一の高い評価を得るに至ったのだ。北海道産うるち米については、「日本お米紀行 第二回、第三回」に詳しく記されているので、そちらを参照していただくとして、今回は北海道産もち米にスポットを当てて、話を進めていく。

北海道でのもち米の品種育成は、まずは入植した生産者の手によって行なわれた!


北海道の広大な田園風景
「北海道のもち米(糯米)の歴史は、うるち米(粳米)と同様、北海道開拓史とともに始まったといっていいと思います」と上川農業試験場(上川農試)/研究部・水稲グループの平山裕治主査は語っている。
 うるち米では、明治6年、中山久蔵(現在の北広島市に入植)が、道南地方から「赤毛」を導入し選定した。
当時、稲作の不適合地とされていた道央以北での稲作を可能にしたことで、彼は「北海道稲作の父」と呼ばれている。
 もち米に目を向けると、明治10年頃には道南部では渡島糯、明治35年には道央部では厚別糯というもち米品種が育成されたという記録が残っている。渡島糯は1789年(寛政年間)頃、亀田郡大野村に入植した品川兼吉が、東北地方から北海道に移入された在来種から選出し、品種として固定したものであり、厚別糯は長野県有賀村(現・諏訪市)から厚別川・川下地区に入植した中沢八太郎が、品種改良に取り組んで生まれた八太郎糯が道内に広がり、厚別糯と呼ばれるようになったものだ。
 北海道でのもち米の品種育成は、うるち米と同じように入植者の手によって行なわれたのである。なぜ、ここまで入植者自身が米づくりにこだわり、心血を注いできたのか?
 当時、札幌農学校を誕生させたケプロンやクラーク博士は、「北海道では稲作は無理であり、本州のような小規模農業技術では非効率なので、麦作を中心に家畜や機械力を使った大規模農業を行うべき」と提唱した。その提言を受け、一時期、明治政府は北海道での「稲作の禁止」を命じている。そして、食生活も米からパン食、ミルクへと切り替えることが推奨されたのである






 


上川農業試験場 研究部・水稲グループ 平山主査
 禁止されたにも関わらず、入植者たちが米づくりを継続したのは、「お米のごはんを食べたい」「正月には餅を食べたい」という、日本人ならではの切実な思いがあったといわれている。そして時代を下るに従い、その思いを実現するように稲作の作付けは道南から道央へと広がっていったのである。
 しかし、明治32~33年頃に開拓が始まった上川や名寄など道北部では、大正時代までは開墾面積の増大とともに換金できる麦や豆類、菜種などの生産が増えていったが、本格的に稲作に取り組む人は、まだ少なかったともいわれている。品種改良が進んだとはいえ、米は元々南国原産の作物。寒冷な道北での作付けは難しかった上に、灌漑設備に負担が大きかったことが、その理由として挙げられている。
 そんな中、北海道農事試験場では大正4年(1915年)に米の本格的な品種育種事業に乗り出すことになった。うるち米では大正8年(1919)に坊主1号、坊主2号を、もち米では大正12年(1923)に改良糯1号を世に送り出している。しかし、これらは今の交配育種法とは違い、初期の栽培集団から優良品種を選抜し、固定種を作る純系分離で行なわれたもの。交配育種法での品種の登場は、小川糯と走坊主を掛けあわせた北海糯1号(昭和9年)まで待たなくてはならなかった。


 










上川農業試験場の外観

 

 北海道の稲作は、つねに気象条件の厳しさに悩まされてきた。特に昭和6年(1931)から続いた冷害は、壊滅的な被害をもたらし、せっかく開拓した水田を放棄する農家がいたほどだった。これを救ったのが、上川の農家が開発した「保護苗代(温冷床育苗)」と、上川農試(当時は北海道農事試験場上川支場)で育成された耐冷性に優れた富国(昭和10年/うるち米)だったといわれている。富国は収量性にも優れたため、またたく間に全北海道の半分以上の水田で作付けされるようになったという。
 それ以降も、上川農試からは多くのうるち米やもち米が生まれている。北海道うるち米のイメージを大きく変えるのに貢献したきらら397(昭和63年)やゆめぴりか(平成20年)などは、まだ記憶に新しい。




もち米生産団地は、もち米が劣性遺伝の形質を持つがために生まれた!


(左)うるち米/精米、(右)もち米/精米
 もち米とうるち米の違いは、でんぷんの構成比の違いにある。うるち米には硬さを作る「アミロース」が20%、粘りを作る「アミロペクチン」が80%含まれている。これに対してもち米は、そのすべてあるいはほとんどがアミロペクチンで構成されている。この違いが食感の差を生みだしているのだ。
 このため、もち米がうるち米に比べて、もともと耐冷性に優れた特性を持っているということはない。しかし北海道では、名寄市やオホーツク海に面した北見市、あるいは遠別町など、道東や道北がもち米の一大産地となっているため、もち米自体がうるち米より耐冷性があるかのような誤解を生んでいる。
「もち米もうるち米も、耐冷特性の差はありません。ただ、もち米生産団地が、より気象的に厳しい地域にあるために、特に耐冷性が重要視され、品種育成されてきたのです」と平山主査が語っているように、北海道のもち米の育種に関して、まず目を向けなくてはならないのが、耐冷性だったのである。

 

調査用サンプルの刈取り風景
 彼の話に、「もち米生産団地」というのが出てきたが、これはもち米ならではの特性の一つを端的に表している言葉(事例)なのだ。もち米は、そもそも劣性遺伝の形質を持っている。もち米とうるち米を交配した場合、4分の1しかもち米にならない。そのためもち米を栽培する場合は、大規模な団地のような専作地域を設けることで、うるち米の花粉の飛び込みを防ぎ、もち米の品質維持(うるち米混入ゼロ)に努めているのだ。北海道のJAグループで扱っている100%のもち米が生産団地で作られており、隣接した地区でのうるち米の作付けは行なわれていない。
 しかし、この特性を持つがゆえに、上川農試の育種担当者を悩ますこともあるという。
「もち米×もち米の交配なら、すべてもち米になるのですが、例えば優れた耐病性などの特性を加えたいと思った場合、うるち米と交配することもあります。当然、4分の1しかもち米にならないわけですから、作業効率は4倍になってしまうのです。また、うるち米と交配しなくても、圃場ではうるち米の花粉の飛び込みのチェックは常に怠ることができません」(平山主査)とのことだ。
 現在、もち米で採られている育種方法は、なんらうるち米と変わらない。交配を始めて3世代目までは集団で世代交代を行い、4世代目からは選抜を行い、5世代目以降、収量試験や圃場での試験、契約農家での実地栽培試験などを行うなど、8~10年を掛け奨励品種指定へのステップを踏む。それだけに、もち米はうるち米よりも作業が煩雑で、手間が掛かるといってよい。 

道内でもいち早くもち米の生産団地化を進めた名寄


圃場における「風の子もち」

 現在、北海道で最大にして、日本一ともいわれているもち米の産地は名寄市。全北海道のもち米出荷契約数量30,164t*の内、約11,000t*(*ともに平成28年産もち米のホクレンの出荷契約数量。その他を含めた北海道全体の平成27年産もち米の検査数量は45,075t[平成28年11月25日現在])と3割強がここで生産されている。平成18年、名寄市は風連町と合併して新・名寄市になったが、旧名寄市の水田は、ほとんどがもち米であり、風連町が加わった今でも、8割以上の水田でもち米が栽培されている。
 しかし名寄は、古くからもち米産地だったわけではない。昭和20年代は、戦後の食糧不足の中、名寄でも山の斜面や奥地まで造田され、うるち米の多収品種が栽培されていた。それが昭和30年代になると、栽培技術の向上、水田面積の急伸により、米の生産量は急増し、昭和42~45(1967~1970)年が豊作だったこともあり、状況は一転、過剰米が出るようになったのである。
 それでも、政府による米の全量買取り・配給を基本にする食糧管理法のもとで流通統制が続いていた。しかし、生産者米価>消費者米価から生まれるいわゆる「逆ザヤ」により食管会計赤字が増大し、遂に昭和45年には、生産調整として、全国に水田の休耕面積を振り分ける減反が始まったのである。また、一方で食の欧米化により、米の消費量が減少するのに加え、消費者は徐々に「高くても美味しい米」=良食味米を求め始めた。
 


コンバインによる刈取風景

 

 この時代、米栽培の北限という厳しい気象条件下で栽培されていた北海道産米は、「不味い米」という評価を下され、「適地適作」という名の下に減反を余儀なくされるだけでなく、消費者からも敬遠されるという事態に陥った。特に道北部では、「米が作れる土地や技術があっても、作らせてもらえない時代」が訪れたのである。
 しかし、開拓精神を受け継いでいた生産者たちは、それに手をこまねいているような人ばかりではなかった。かねてより「道北・名寄でも良質米を!」を目指していた生産者たちが集まり、稲作研究会を発足。そして彼らは、冷害時にも影響が少なく、品質的にも他県に劣らないもち米に注目し、栽培の検討を始め、昭和45年には生産組合を立ち上げている。さらに昭和54年(1979)には、すべての水田をもち米に切り替え、道内でもいち早く団地化を進めたのである。
 一方、合併相手であった風連地区は、主にうるち米を作付けし、減反政策の始まる前年の昭和44年に米の出荷量がピークに達していた。それが一転、減反政策がとられるようになると、稲作農家が生き残りをかけ、名寄にならい生産組合を結成。昭和59年(1984)に「もち米の生産団地指定」が実現。加速度的にもち米への転作が進んでいく。そして、昭和62年には遂に、もち米の作付面積がうるち米を上回るまでになったのである。
  この転換時期を支えたもち米品種が、北見農試で育成されたおんねもち(昭和45年)と上川農試で育成されたたんねもち(昭和58年)であった。おんねもちは耐冷性に優れ、寒冷地の適地適作という条件をクリアしたが、着色被害を受けやすいという弱点を有しており、良質米の比率が低かったため、たんねもちへと移行していった。
 そして平成元年(1989)には、母本をたんねもち、父本をおんねもちとする交配によって、のちに北海道のもち米ブランドの代名詞ともなったはくちょうもちが北見農試で育成され、奨励品種に指定されることになったのだ。

もち米には柔らかさが特徴のものと、硬化性が高いものの2系統がある

現在、北海道で生産されているもち米は、主に4種類。それぞれの特徴は、以下のようになる。

 これらを見ると、同じもち米でも特徴の違う2系統が存在することが見てとれる。一つが柔らかさに特徴があり、おこわや赤飯、和菓子などに適したはくちょうもち⇒風の子もち⇒きたゆきもちの系統。もう一つのしろくまもち⇒きたふくもちの系統は、硬化性が高く、切り餅や米菓などに適した系統である。
 もち米は、たっぷり水に浸けた後、蒸して餅つき機などで搗いた場合、柔らかさが長時間持続するものと、冷えるとすぐ固くなる(硬化性が高い)特性を持つものと、2タイプの品種が存在する。北海道のもち米でいえば、前者がはくちょうもちなどの系列で、後者がきたふくもちの系列にあたる。また新潟を代表するこがねもちなどは、後者の代表的な品種であり、佐賀産のヒヨクモチは、前者と後者の中間の特性を持ち、汎用性のある品種として知られている。


もち米(4銘柄)硬化性の試験結果
 このため、もち米品種を育成するにあたっては、それぞれの系統で狙いが変わってくると、平山主査は語る。
「はくちょうもち→風の子もち→きたゆきもちの流れは、食味や白度などの品質の向上と品質・生産の安定(耐冷性の強化)を狙い育成されてきたのに対し、しろくまもち→きたふくもちの流れは、硬化性の向上を狙い育成されました。もちの硬化性は登熟温度の関係が強く、登熟温度が低い北海道では硬化性の高い品種を育成するにあたっては、さまざまな困難が伴いました」
 しかし、あえてそれに挑戦したのは、「柔らかいものと硬化性が高いものという両極のもち米を持つことで、幅広いニーズに対応できる北海道のもち米というイメージにつながるという、戦略的な取組みだった」とホクレン農業協同組合連合会/米穀部 原材料課 室谷光紀課長は語っている。実際に遠別地区では、ホクレンと農協、生産者が三位一体となって、きたふくもちの栽培を増やしていこうという取組みも行なわれているのだ。

 

もち米は生産量の安定確保が基本であり、最重要課題


ホクレン 米穀部原材料課 室谷課長
「北海道のもち米といえば、はくちょうもち」といわれてきたが、現在は、風の子もちの方が作付面積、収穫量とも多いのである。風の子もちは、平成5~6年頃までたんねもちを主力として栽培していた空知地方や道南部の生産団地の後継品種として育成されたもの。極強の耐冷性はもとより、中生ということもあり、早生品種よりも収量があり、品質も良かったことから、他の生産団地でも栽培されるようになり、作付けを伸ばしていったのだ。
「今でも、認知度でははくちょうもちが高いのですが、栽培面積で上回っているのは、生産者にとっては良質で多収が見込めることが大きかったと思います」と平山主査は語っている。
 同じように、より耐冷性に優れ、品質・収量ともアップが見込めるきたゆきもちが育成されたことで、特に網走などのオホーツク海に面した寒冷な北見地区では、収量や品質にバラつきが多かったはくちょうもちは作付けされなくなったのだ。しかし、そのきたゆきもちもまったく欠点を持っていないわけではない。耐病性に関しては、はくちょうもちなどに比べて落ちるため、きたゆきもちを作っている地域からは、同程度の耐冷性、品質、食味をもち、さらに耐病性を上げた品種を望む声が、上川農試にも上ってきているという。
「今、きたゆきもちが育成され、平成22年から収量が安定してきたことで、北海道はもち米のシェア日本一になってきました。価格的には、ゆめぴりかよりは安いですが、ななつぼしよりは高いところを維持しています。また、生産量はうるち米の約6%に過ぎませんが、消費の方も主食用のうるち米に比べて、減り幅は少なく、ホクレンの契約数量も加工用も含め4万t前後と安定していますね。安定確保こそが基本であり、もち米の生産には最重要課題なのです」とホクレンの室谷課長は熱く語る。
 

マラソンランナーへもち米をPR
 この基本となる生産量の安定確保は、生産者の手取りが安定し、後継者を育てることにもつながっていくという。また、もち米を使った製品価格への影響を最小限に抑えることにもつながり、北海道産もち米の信頼性をアップしているのだ。
 そして、それには各地区で展開されている北海道ならではの、大規模な生産団地が寄与しているといっても過言ではない。また、流通を一元化しているホクレンの役割も大きい。そして、もち米専作農家が集まっているからこそ、大ロットの契約栽培を可能にしているのである。
「今は需要と供給=生産のバランスがいい状態。この安定した状態を維持するためにも、地道な販売戦略が必要になってきます。例えば、おはぎを作るために購入したもち米が残っても、家庭で作れるおこわのレシピを紹介するなどといった取組みです」と室谷課長。
 またホクレンは、東京オリンピック2020に向けて、スポーツで発揮するもちの機能性を訴求するなどして、一時的なものではなく継続性のある需要拡大の方向性を、生産者や製造業者などと一体になって模索しているのである。 

客観的に評価されることが少ないもち米育種には、淡々と向き合うことが必要!


「お赤飯の日」に向けて、イベントでお赤飯を配布
 基本となる生産量の安定量確保には、もちろんさらに耐冷性、収量性が良く、品質が安定し、良食味の品種の育成が不可欠であることはいうまでもない。そして、それに応えるべく、上川農試では新しい品種育成に取り組んでいるのである。
「今後も上川農試のもち米品種育成の基本方針は変わりません。硬化性が低く柔らかさが持続するもの、こがねもちに匹敵するような高い硬化性をもつ品種の両方向で育種を行っていきます。収量性のアップを重視していますが、既存品種以上に品質が高く、強い耐冷性を含め安定栽培が可能なもち米が育成できたらと思っています。さらには、柔らかさを極めたもち米というものにも挑戦しているんですよ。柔らかさを維持するために添加剤を入れたりしていますが、それがいっさい必要としないような……」
 もち米の育種では、うるち米のように食味ランキングという形で、客観的に評価される機会はほとんどない。品種をデビューさせる準備段階で、実際にもち米を使用する業者に使ってもらい、味などの評価を得ているが、「生産者がどれだけ栽培しやすく、品質のいいものを安定的に収穫できたという結果で判断されることが多い」と平山主査は淡々と語っている。
 もち米の品種育成は、見た目などよりも長い時間使ってみて、初めて評価が確定していく家具や焼き物を作っているようなものかもしれない。そして高い評価を獲得するには、長年の経験と、家具職人や陶工が木や土と向き合うのと同じように、もち米に淡々と向き合わなくてはならないのかもしれない。

*文中敬称略、画像提供:ホクレン農業協同組合連合会、上川農業試験場

北海道産もち米の商品は → こちら