さがびより誕生秘話 西の横綱といわれたヒノヒカリの高い壁を越え、にこまるという新勢力にも負けない力をもったブランド米に成長!

かつては、先人たちがたゆまぬ努力と知恵を発揮したことで、反収全国一に輝き、九州の米どころとして全国の注目を集めた佐賀県。米生産が「量から質」という時代においても、独自のスタンスを貫き、新品種の育成を始め、さがびよりという6年連続で特Aを獲得した極良食味のブランド米を生み出したのである。

常に水不足と闘いながらも、反収全国一まで押し上げた先人たちの知恵


佐賀県内における田園風景

 佐賀県佐賀市を中心に、県南部から東部にかけて広大に広がる佐賀平野。その面積は約4万haほど。北に脊振山地、南に有明海に囲まれた温暖な地域で、吉野ヶ里遺跡にみられるように、昔から稲作を中心に栄えてきたといわれている。しかし、農地や集落がある土地は、今でも満潮時の有明海の海面より低く、堤防を作る技術が未熟だった時代は、台風や大雨が降るとすぐに堤防が決壊、洪水という大災害に何度も見舞われてきた。また、脊振山地は山並み自体が低く、それほど広大なわけでもないので、森が水を貯めて流れる川は少なく、川らしい川は嘉瀬川くらい。このため、江戸時代には水田に入れる水の配分をめぐって、村同士の水争いが起こるなど、常に水不足に悩まされてきたという。
 洪水と干ばつが頻繁に起きるという厳しい条件の中で、佐賀平野で生活してきた先人たちは、知恵と技術を結集し、それらに立ち向かってきたのだ。
 その一例が、佐賀平野の中に流れるいくつもの広い水路。この水路はクリークと呼ばれ、佐賀の農業を支える大切な役割を果たしている。一番大きな役割は、なんといっても稲を育てるための水の確保。平野を流れる嘉瀬川やその支流である多布施川だけでは農業用水としての水の量が足りないため、雨が多い時期に余った水をクリークに貯め込んで、雨が少ない時期に使ってきたのだ。また、干満の差が大きい有明海の特徴と水と海水の比重の違いをうまく利用し、上層の水のみを取り込みクリークへと引き込むという淡水(アオ)取水という独特の手法も編み出された。
 佐賀平野の農業、特に米づくりは、このクリークと淡水取水によって発展してきたといっても過言ではない。しかしクリークから田へ水を汲み上げる作業が人々にとっては、とても過酷な作業。大正初期頃の佐賀県の米作停滞の大きな原因は、その重労働にあったといわれている。重労働を少しでも軽減させようと、踏み車や馬耕などと、さまざまな試行錯誤が行なわれたが、それを改善するまでには至らなかったのである。


収穫期を控えた県内の広大な田園風景
 それを一気に改善したのが、大正11年(1922)の電気灌漑という、電動ポンプによる水の汲み上げ方法の普及だった。
 今までの苦労が嘘のように、簡単に水田に水が入れられるようになると、それに合わせ米の品種改良も進められていった。品種改良が行われると、その品種に合わせ肥料の改善も行われ、その成果が目に見えて現われてくる。飛躍的に作業効率が上がり、それまでの過酷な労働から解き放たれ、人々の生産意欲も増して、1戸当たりの耕作面積の拡大へとつながっていく。
 好循環状態になった佐賀平野の米づくりは、大正後半から昭和初期にかけ大きく発展していくことに。そして昭和8年(1933)から昭和12年にかけては、米づくりにおいて反収量(10a=1000㎡当たりの米の収穫量)が遂に全国一に輝いたのである。この飛躍的な発展は「佐賀段階」と呼ばれ、全国の農業、農村の注目の的にもなった。これは、あきらめずに知恵と技術を磨いてきた佐賀農業従事者たちの勝利の証といっても過言ではない。 

佐賀農試で育成されたオリジナル1号品種は短命で終わった!


佐賀県農業試験研究センター(外観)

 全国一の地位に登りつめた佐賀だったが、第2次世界大戦により農業人口も減り、先人たちから継承してきたクリークは放置され、荒れた水田も多く見られるようになった。また、働きながら農業を営む兼業農家が増えていったのも時代の流れというしかない。
 しかしかつて「佐賀段階」を経験した農業従事者の中には、「あの栄光を再び!」という思いを抱いていた人も少なからずいたのである。その熱い思いが行政を動かし、水資源開発が進められることに。昭24年(1949)から始められた国営嘉瀬川土地改良事業により、北山ダム(昭和25年着工、同32年完成)、川上頭首工(頭首工とは、川に流れる水を農業用水として水路に引き込むために設ける堰や取入れ口をまとめたもの。昭和35年に完成)などが作られ、近代的水路網が整備されていったのだ。
 また、地域ごとにバラバラだった栽培方法や農薬など基本的な農作業の基準を統一。昭和40(1965)、41年には、再び2年連続で米の反収量日本一に輝いている。こうした発展を「新佐賀段階」と呼び、それ以降佐賀県は、西日本では有数の米どころとしての地位を確立していったのである。 

佐賀県農業試験研究センター/広田分場長
「2度目の米づくりの日本一に輝いたのですが、この頃佐賀で作付けされていたのは、ホウヨク(1961年農林登録)とコクマサリ(1962年農林登録)。いずれも九州農業試験場(現:九州沖縄農業研究センター)で育成されたもので、短稈で穂数が多い品種。収量が主力の時代でした」
 こう語るのは、佐賀県農業試験研究センター三瀬分場/広田雄二分場長。彼は平成22年(2010年)度まで、本場で水稲育種を担当していた。
 戦後間もない頃は、多収品種がもてはやされていたが、昭和38年をピークに米の消費量は減少しはじめ、日本人の食生活でもコメ離れが始まっている。昭和40年代になると、米は供給過剰になり、自主流通米制度がスタート。また、消費者のお米の味に対する要求が強くなり、そんな世情を反映して昭和44年、政府は「銘柄米制度」を発足させた。つまり消費者は、米に量より質を求め出したのである。
 その波は佐賀県にも押し寄せてきたことはいうまでもない。昭和45年(1970年代)以後の政府の転作奨励により米以外の作物への切り替えが行われた。同時に、<美味い米づくり>への転換を余儀なくされ、反収は減少した。
「昭和60年代は、ササ・コシ(ササニシキ・コシヒカリ)時代。食味が良いものが、さらに強く望まれるようになってきていました。佐賀県でもホウヨクなどの多収品種に替わり、レイホウや日本晴が作付けされ、山間部ではコシヒカリの作付けも行なわれていました。良食味を考えれば、コシヒカリを主力にと考えられたのですが、県の平坦部ではうまく作れないという事情があったのです」と広田分場長。









試験田で田植作業を行なう光景
 レイホウや日本晴は、それまでの多収品種に比べれば食味は良かったが、コシヒカリと比べるとその差は歴然としていた。そのような状況の中、昭和60年代になると佐賀県農業試験研究センター(以下「佐賀農試」という)では、あきたこまちの成功例を模範に県オリジナルの品種育成をしていく方向へと舵をきることになったのである。そして昭和63年から品種育成がスタートしている。
 その第1号となったのが、佐賀1号(商品名はぴかいち)。この佐賀1号は、佐賀大学との共同研究によるもの。コシヒカリに短稈の遺伝子を導入し、繰り返しコシヒカリと交配することで、短稈のまま食味や品質をコシヒカリに近づけた。佐賀県の肥沃な平坦地にも適応できる耐倒伏性に優れた短稈のものを品種として固定していったのである。
 この佐賀1号のデビューは平成3年だが、同時期に宮崎県総合農業試験場ではヒノヒカリ(平成元年デビューし、翌年品種登録)も育成され、佐賀県でも奨励品種に指定されている。佐賀1号は極早生だったが、短稈だったため平坦地でも作りやすく、肥料をたくさん入れれば収量もコシヒカリ並みを維持した。一方、ヒノヒカリは作りやすく、収量も多く、そして食味も高い評価を得ている。そのため佐賀1号は、平成4年をピークに徐々に作付面積を減らしていくことに。そして平成18年にはゼロになり、佐賀県の期待を背負ったオリジナルの第1号品種は、短命で姿を消していったのだ。

ヒノヒカリが高い壁となっていた。そのため着眼点を根本から見直すことで、
さがびよりが誕生した

 佐賀県では平成10年頃に、中山間部では相変らずコシヒカリ(極早生)が作られていたが、平坦上部から山麓部にかけては、ヒノヒカリ(中生)が全盛時代をむかえる。作付面積も50%を超えるように。ヒノヒカリは作りやすい、収量も多く、良食味ではあったが、一つの品種に偏ってしまうのは、気象災害などのリスクを内含することにつながる。そのリスクを回避するために、佐賀農試では熟期の違う良食味、良品質のオリジナル品種の育成を急ぐことになったのだ。

(左3株)さがびより、(右2株)ヒノヒカリの稲穂
 その一つがキヌヒカリとひとめぼれの交配によって育成され、平成12年にデビューした夢しずく。ヒノヒカリよりも収穫期が10日ほど早い早生品種。「その頃の四国、九州の米は硬質米というイメージがありましたが、夢しずくは、その既成概念を打ち破る柔らかく粘りが強い特性を持った品種です。」と広田分場長。
 その言葉通り、ほどよい粘りと優れた味わい、ふっくらツヤのある光沢が高い評価を受け、夢しずくは食味が劣る日本晴(早生)などを駆逐し、作付面積を伸ばしていく。
 そして、晩生品種として育成されたのが天使の詩だ。晩生多収・良食味の西海201号、早生・良食味の関東165号との交配で育成され、平成15年に奨励品種に指定されている。
「作期分散のための晩生品種として期待されたのですが、高温登熟耐性が十分でなかったことで収量・品質が思うように伸びず、徐々に作付けが減っていきました」と広田分場長。

さがびより米袋(精米用)
 しかし、冷めてもほどよい粘りと甘みがあり、食味に関しては評価が高かったことから、今でも一部地域では作付けされている。
 これら佐賀県オリジナルの新品種が生まれ、一定の評価は得たが、ヒノヒカリの牙城を崩すまでには至らなかった。そんな中、地球温暖化の影響を受け、登熟期の高温による玄米. 外観品質、収量の低下、いわゆる高温登熟障害が、西日本を中心に多発するようになってきた。西の横綱と呼ばれてきたヒノヒカリとて例外ではなかった。そのため、それに対応する品種の育成が急務になってきたのである。
「高温登熟耐性を上げるのはもちろん、食味、収量、品質でもヒノヒカリを越えることが望まれました。それは高い壁でしたね」と、広田分場長は当時を振り返りながら、しみじみと語っている。そして、その高い壁を越えるため、彼はある決断をすることになる。着眼点を見直し、食味自体の方向性を変えることにしたのだ。ヒノヒカリは、全体的には小粒で、味・粘り・香りともにバランスが良いのが特徴だったが、あえてバランスにこだわらず、独自の食味を追求していくことに。
 母本にコシヒカリ系で粘りがあって良食味の天使の詩、父本には、旭系列の品種で、粒が大きく、適度な甘みを持ったクセのない味わい、冷めても味が落ちないと一部で高い評価を得ていたあいちのかおりという組み合わせから、新系統・佐賀37号が生まれた。
「コシヒカリの食味と旭系の食味を足したものが果たして受け入れられるか、正直、自信と不安が入り混じっていました」
 平成10年から交配が始まった佐賀37号は、平成20年にさがびよりと命名され、翌年には奨励品種に指定された。しかし、すんなりとデビューに至ったわけはない。
 平成17年、九州沖縄農業研究センターで育成されたにこまるが、長崎県の奨励品種に決定し、高温年でも安定した品質と収穫量が得られ、なおかつおいしいという評価が下されていたからだ。




イネージキャラクター「ひよりちゃん&ちゅんくん」
「佐賀37号は、いもち病に強いあいちのかおりとの交配でしたが、選抜していく過程でその特性がスポイルされていきました。しかし、外観品質の素晴らしさという、それ以上のものを手に入れていました。育種担当者として、手応えを感じていましたが、片や、にこまるはいわば国の育成品種で評価も高く、九州一円で作付けされることが見込まれている状況。そのため、佐賀県でもにこまるを奨励品種にするのか、あくまでも佐賀37号でいくのか? という議論がなされたのです」
 そこで平成18年から、佐賀37号とにこまるを同じ圃場で試験栽培し、比べてみることになった。
 その年の9月17日夜半、佐賀37号と にこまるを比較栽培しているほ場に台風13号が未曾有の潮風をともなって襲来した。翌朝、立ったままの姿を見せていたたのは、佐賀37号だったのである。
 それまでは「どちらも甲乙付けがたい」評価であったが、良食味米の安定供給という観点からは、佐賀37号が有利であり、「佐賀県としては、オリジナルでいこう!」という意見に集約され、デビューへとこぎつけたのである。この決定には、かつて反収全国一を誇った佐賀県農業関係者の心意気と、期待が見え隠れするといってもよい。
 

夏の高温で品質低下が心配されたが、それでも特Aを獲得したさがびより

 平成21年からさがびよりの生産者の圃場での本格的な作付けが始まったが、初年度の作付面積は1,520ha。夢しずくの初年度作付面積の実績が200ha(目標は300ha)だったことを考えれば、上々の出だしだったといって良い。しかしこの年、平成20年の長崎県産にこまるが日本穀物検定協会の食味ランキングで特Aを獲得したという報を受け、「やはり、にこまるにした方が良かったのでは?」という声も、一部の農業関係者の間では囁かれていた。


食味ランキング 6年連続「特A」を受賞
 その秋、さがびよりは初収穫を迎えたが、品質は安定し、収量も上がり、食味も上々で、関係者はホッと胸をなで下ろしたという。さがびよりは、第一段階を無事クリアしたのである。
 その結果、翌22年は作付面積が一気に4,360haまでに拡大した。しかし、この年は前年とうって変わり、これまでにない高温年になってしまったのである。ヒノヒカリに比べ高温登熟耐性は強かったが、「食味が悪化しているのでは……」という懸念もあった。
 そのような中、食味ランキングへ出品。結果は、地元の関係者の不安を一掃、堂々特Aの評価を得たのである。
「平成21年産より厳しい天候だったのに、特Aを獲得できた。育成の過程での手応えが確信へと変わった瞬間でしたね。でも育成した品種が私たちの手を離れたあとは、どう育っていくのかは、現場しだい。ある面、育種担当は社会に出た子どもたちの成長を見守る親と同じ立場なのです。さがびよりは、農業指導員さんや農家の皆さんなど、いろいろな人の力によって、私たちが想像していた以上のものになっていったということ――正直なところ、どう育つか、私たちは内心ビクビクしていたので、うれしさよりもホッとした気持ちの方が強かったですね」と語る広田分場長の顔には、満面の笑みが広がっていた。
 

一気に生産量をアップするよりも出荷の統一基準を設けるなどし、さがびよりをさらに品質向上させる道を選んだ


佐賀県農林水産部/森主査
 現在、佐賀県のうるち米の作付けは、夢しずく22%(5380ha)、ヒノヒカリ22%(5370ha)、さがびより21%(5150ha)、コシヒカリ8%(2040ha/いずれも平成28年産うるち米品種別作付面積の数値)と、熟期を含め、バランスが良い構成になっている。
 その中で、県としてはさがびよりのさらなる底上げ(拡大)を目指した施策を展開している。
「さがびよりは、もともと高温登熟障害を受けやすいヒノヒカリに替わる品種として育成された品種。ヒノヒカリに関しては、一定の需要があるので、すぐにすべてをさがびよりに置き換えることはないですが、ヒノヒカリの作付を徐々に減らし、さがびよりの作付を増やしていく計画です」と佐賀県農林水産部農産課/森敬亮主査が語っている。
 佐賀県の人口は80数万人と少ない。当然ながら、うるち米の生産は県内需要を上回っている。だからといって、さがびよりを県外の量販店などへ投入し、一気に増やす拡大政策を進めているわけではない。作付面積が増えることでタガが緩むことがないように、生産者で作る協議会自ら出荷の統一基準を設けて大事に育てているのだ。
①一等米比率100%
②整粒歩合70%以上
③玄米の水分含有15%
④玄米中のたんぱく含有6.8%以下
⑤出荷時は篩(ふるい)目、1.9mmを使用
 上記の出荷基準を満たしたもののみが、さがびよりとして統一デザインの米袋で販売できるのである。
 また品質向上をめざし、県段階に「さがびより技術指導チーム」を置き、共同乾燥施設ごとには「さがびより米(マイ)スター」を任命。きめ細かい生産者への栽培技術指導を行っているのだ。
「極良食味米としてブランド化を図ることによって、県内の生産者たちがプライドを持って、栽培できる環境を作っていきたいと考えています」と森主査。 

さがびよりを使った料理教室を開催
 現在、さがびよりは県内外からヒキが強く、需要が供給を上回っている状態だという。そのため、生産量をアップすることが当面の課題になっている。
「一気に生産量を上げることはないですね。品質を維持しながら生産拡大を図っていく方針です。また、有名米穀店などと協力をして、県外への認知度アップをさらに進めることで、ブランドの確立を図っていきたいと考えています」
 佐賀県では、米に加えて冬に麦を栽培する二毛作が中心で、春から秋にかけては米2年、大豆1年という3年単位でのブロックローテーションでの栽培を行っている。このため、米専業という農家はいない。それだけに、次世代へも引き継がれる継続性のある確固たるブランドが必要となっているともいえるのだ。
 また、水田農業を守るために、佐賀では生産者が集まり法人化を目指す、集落営農が進められている。それに一役買っているのが、農協(JA)だ。県内4地区のそれぞれのJAが、その地区にあった栽培指導などに力を発揮して、良食味米生産県としての役割を分担しているのである。
「佐賀県は県とJAの協力体制がしっかりしています。そこに生産者が加わり、三位一体となって、水田農業を守っているのです」と森主査は語る。 

 江戸時代から近代まで、水不足などの困難を、力を合わせ乗り切り、反収全国一へまで押し上げた先人たちの努力と心意気。「米が量から質の時代」になった現在でも、「長いものに巻かれるのではなく、自分たちの意志で一緒にやるんだ!」という先人たちの心意気が、それぞれに綿々と引き継がれてきたからこそ、可能になった体制なのかもしれない。
 だからといって、佐賀県の農業関係者が今の状況に100%満足しているわけではない。また、今作られている品種に関しても完ぺきではないため、佐賀農試としても安閑としているわけでもない。
 いもち病に弱く、多発地域での栽培が制限されている夢しずくに関しては、いもち病の耐性を強化した品種の育成を急いでいる。また、さがびよりよりもさらに高温登熟耐性に優れたものの育成も進められている。さらに害虫(ウンカ)に強い品種の育成も行なわれているのだ。
 これからの時代、温暖化など気候の変化が稲の生育や病害虫の発生にどのような影響を及ぼすか予断を許さない面もある。そのためにも、佐賀農試では新品種の準備を常に怠らない態勢で臨んでいるのである。
 さがびよりが今後どのように成長し、ブランド米勢力地図をどう塗り替えていくのかは、ここ数年で結果が出るかもしれない。その結果が出た時、佐賀県がどのような施策を打ってくるか、目が離せない状況なのである。


*文中敬称略、画像提供:佐賀県農林水産部、佐賀県農業試験研究センター