あきたこまち誕生秘話 わずか2名で始めた育種に奇跡をもたらした福井から移譲された1株

平成26年、東北を代表する人気ブランド米の一つである「あきたこまち」は誕生30周年を迎えた。昭和59年9月7日、当時の秋田県知事が新しく育種された銘柄米を記者の前で発表した日が、あきたこまちの誕生日とされている。しかし、このブランド米誕生には、多くの紆余曲折があったのである。



あきたこまちという人気ブランド米を生んだ秋田だが、東北、北陸の各県の農業試験場のように育種が盛んだったわけではない。昭和16年から戦後しばらくは、育種は中断されており、育種を担当する課すらなかったのだ。

 昭和9年に東北大冷害があったのを契機に、国では東北6県に一つずつ試験地を設け、耐冷性品種の育成、栽培法の改善を行なっていた。秋田県には大曲市に国の奥羽試験地が、あった外に、現在の仙北市(旧田沢湖町生保内)に試験地が設けられ、育種が行なわれていたが、昭和22年には、国はこの事業を打ち切ったが、秋田県だけはこれを受け継がなかった。

 それ以降、秋田県農業試験場では、ほかの県、あるいは国に試験場から、新しい品種となった系統の配布を受け、その中から県で作付けするのに相応しい奨励品種を選ぶ奨励品種決定試験を行うにとどまっていたが、育成地に比べると一夕の遅れは免れなかった。当時はヨネシロ、レイメイ、ササニシキ、トヨニシキ、アキヒカリ、キヨニシキなどが、秋田県の奨励品種に選定されていた。










 
県の育成者は、「かつて秋田で生まれた奥羽132号のような大物品種を出してみたい」と夢を抱きながらも、鬱々として品種選抜に携わっていたようだ。

 秋田県での育種は、昭和49年に再開の要請があり、翌年に着手されたが、昭和38年、県の農業試験場が仁井田に移転する際にも、「育種を始めたらどうか」という話が出たこともあったという。しかし「じゃあ、すぐにやりましょうか」というわけにいかなかった。

 育種を始めるには、莫大な予算と労力が必要。一つの品種ができるには、約10年掛かるといわれており、予算と労力がそれまで続くのか? また10年間、理解して待ってもらえるのか? という現実的な問題があった。そして、それがクリアできても、必ず素晴らしい品種ができるという保証は何もなかった。そのため期は熟さず、育種再開は見送られることになったのである。
 


わずか2名で始まった新品種の育種

その秋田県の農業試験場を育種再開に向かわせたのは、時代の変化だったといってよい。
戦後の食糧不足の時は、耐病性と多収性の品種育成がなされ、米の生産量が急増した。そんな時代背景の中、秋田県はお米の収量では全国の上位3位に入る米どころとなっていたのである。

 

 しかし、昭和38年をピークに米の消費量は減少しはじめ、日本人の食生活でもコメ離れが始まっている。昭和40年代になると、米は供給過剰になり、自主流通米制度がスタート。また、消費者のお米の味に対する要求が強くなり、そんな世情を反映して昭和44年、政府は「銘柄米制度」を発足させた。つまり消費者は、お米に量より質を求め出したのである。

 

米の産地間の競争も激しくなり、自県で新しい品種を作らなければ、稲作りの先取りができない。そのためには、秋田でも環境に合った新しい品種を作らなくてはという機運が盛り上がってきた。県の農協からも「総意として独自の品種を作ってほしい」という要請があったという。そして昭和50年、遂に県農業試験場に水稲品種課が生まれるに至った。

 翌51年は調査期間として、いろいろな県での育種の事情を調べたり、作業の仕方を学んだりの準備にあてられ、実際の育種作業の開始は、昭和52年から。

 まずはじめに、どんな品種を作り上げるかという育種目標が必要となった。第一の目標となったのが、「他県にはない、おいしい米を作る」だったという。

 「その手本に上ったのが、ササニシキとコシヒカリでした。秋田でもうまい米として勢力を伸ばしていたササニシキでしたが、東北だけの品種でありいもち病や倒伏などマイナス要素がありました。それよりは、日本海側にルーツをもち、ブランド米として全国区になっていたコシヒカリを参考に手本にした方がいいということになったのです」


現「JA全農あきた」児玉徹参与
こう当時を振り返るのは、昭和47年に農業試験場に就職。のちに稲作部長として、あきたこまちの普及に力を注いできた現「JA全農あきた」の児玉徹参与だ。

 

 しかし、コシヒカリは非常に美味いお米だが、晩生種であるため秋田では栽培できない。また倒伏しやすいという特徴も持っていた。このコシヒカリの味の良さを維持しながら、早生化し、それと同時に倒伏しない短い稈にし、いもち病にも強い品種にしようと、どんどん目標は大きくなっていった。








 

齋藤正一科長(当時)
といっても現実に目を向ければ、当初のスタッフは齋藤正一科長と畠山俊彦研究員のわずか2名。
しかも両名とも育種の経験がなく、しかも奨励品種選抜試験などをしながら、という状態だったというから驚きである。齋藤科長と畠山研究員の2人は、それまでにもまして積極的に動いた。東北、北陸、ときには愛知県など、整備されて実績の豊富な試験場を回って、育種を進める知識と技術を吸収していったのである。

 

スタッフは、今後増やすなど改善の余地はあったが、問題は施設整備などに掛かる費用面だった。しかし、これも昭和52、農協中央会が新品種育成のための人工交配室を作るという名目で1,700万円を県に寄付。その中央会の意向が呼び水となり、県がさらに1億5,000万円の予算を新たに計上したことで解消された。

 

秋田独自のうまい米の品種を作ろうというコンセプトが正式に認められ、いよいよスタートすることになったのである。


秋田市内あきたこまち圃場

福井から移譲された1株が素晴らしい原石だった!

昭和50年、福井農業試験場では、育種の一つとしてコシヒカリを母に奥羽292号を父にした交配が試みられていた。
コシヒカリに、食味はまずまずだがイモチ病、冷害に強く、安定多収の奥羽292号を組み合わせたものだったが、交配:頴花数55に対し、結実数はわずか18粒。さらに翌年、その18粒を栽稙し、なかから7株を選抜した。

 

 昭和51年、福井農業試験場に勉強しに行っていた畠山研究員が、帰るときに「秋田の地に適するんじゃないか」と石黒慶一郎場長から、このF7株の内の1株が渡されたのである。この1株(384粒)が、のちにあきたこまちという大ブランド米を生む原石だったことを、当時は誰も予想すらしていなかった。

 

昭和52年から実際の育種作業が始まったが、最初の手持ちがゼロだったこともあり、この福井から移譲された1株は大事に育てられることに。圃場には384粒が移植され、「出穂が遅いものはどんどん捨てる。秋田に合ったものを選んでいく作業が行なわれた。奨励品種決定試験を長年やってきていたので、その作業はお手のものでした」

 思わぬところに、地道にやってきた仕事によって培われた諸先輩の眼力が活かされたことに対し、自分は当時その作業に関わっていなかった児玉参与だが、満足気に目を細めて語ってくれた。

 初年度は、384株を81株に絞り込み、翌53年は15系統を選抜した。個体選抜、系統選抜を行うため、実際には10万株近くのから選抜が繰り返されている。そしてもちろん、この譲渡された1株以外にも、多くの交配種が栽植選抜されたことはいうまでもない。さらに、選別・試行錯誤が繰り返された結果、昭和55年には有望な2系統(5505、5504)に絞られたが、奇しくもそれらはいずれも、福井から移譲された1株から発したものだったのだ。

 そして昭和57年1月、圃場栽培の結果、倒伏に強いということで待望の新品種は「5505」に決定。秋田31号と命名された。そしてさらに2年間、県内各地の農家で現地栽培をして、その成果が確かめられることになったのである。

最初の食味試験で、驚きの評価が下されたあきたこまち

 2年間の栽培で、新品種の優秀性が確認されたことで、農業試験場と県のJA農協などが中心になって、秋田31号の普及と販売戦略が練られることに。

 その第一歩がネーミングだった。「米どころ・秋田の美味しいお米というイメージ」が伝わる名称を公募。


あきたこまち米袋(初稿)

「アキタワセ」「アキホナミ」「アキミヨシ」「アキコマチ」などの、当時ブランド米の主流だったカタカナ5文字の名称が多く寄せられた。その中に、日本美人の代名詞といわれ、秋田生まれの小野小町にちなんだ「あきたこまち」とうブランド名もあった。ひらがなで6文字の銘柄名は珍しかったが、最終決定者であった知事は迷うことなく「あきたこまち」を選定した。秋田31号が、日本を代表する美人米に育って欲しいという思いが込められていたに違いない。そして、晴れて昭和59年9月7日に記者発表されたのである。

 

 また同時期に、毎年各地方で生産される米を試食し、その “食味”の良・不良を所定のルールに従って評価する「食味試験」(日本穀物検定協会)が行なわれている。そこで初めて試験を受けたあきたこまちは、驚くべき数値を叩き出したのである。宮城のササニシキが0.5~0.6、新潟のコシヒカリでさえ0.7~0.8という数値なのに対し、あきたこまちは0.944という数値(1に近いほど好評価)。あきたこまちは初年度から、公正な第三者機関の「美味しいお米」というお墨付きを手に入れることになったのだ。
 当初、この「あきたこまち」と命名された新品種は、横手盆地の雄平仙の数千haで栽培される予定になっていた。しかし、この食味試験の結果で、状況は一変してしまう。

 

あきたこまち米袋(釣りキチ三平)
「こんな美味しいお米は、全県で作らせるべきだろうという声が上がり、いっきに作付けが進んでいったのです。また種苗登録の権利は、交配種を生んだ福井と、それから品種につなげた秋田にあったのですが、両県とも譲り合って登録しなかったので、パテントがないため、アッという間に全国にも広がっていくことになったのです」と、児玉参与は笑いながら語っている。

 

 そして昭和61、62年と、いっきに作付面積が広がっていったが、まったく心配がなかったわけではない。秋田はお米の多収地帯であったが、ほかの品種からあきたこまちに変えることで収量が減ること、また想定した地域以外での作付けが行なわれたことによる、品質の不安定化などが懸念された。

 

あきたこまち米袋(最近:秋田食糧卸 提供)

しかしあきたこまちは、栽培法などの技術改善によりそれらの問題もクリアし、今のコシヒカリに次ぐ良食味のブランド米の地位を確立していったのである。
「今は温暖化が進み、耐冷より高温耐性が新品種に求められるようになってきています。今後は、秋田でもそれを踏まえた上で、既存のあきたこまち、そしてコシヒカリを超える食味の品種作りが育種の目標になっていることはいうまでもありません。すぐに品種が生まれるわけではないので、生まれた品種が、その時代に合うかどうかが分からないところが難しいところではあるのですが……」

 こう語る児玉参与。奇跡の1株から「あきたこまち」を生み出しように、地道にコツコツと立ち向かう秋田農業試験場の情熱は、今も失われていない。そしてそれが近い将来、再び結実し、新たなブランド米が誕生することを確信する口ぶりだった。