宮城産米戦後秘話 偉大なブランド米「ササニシキ」から、「ひとめぼれ」に。東北大冷害がもたらした大逆転劇!

 

 「東の横綱ササニシキ、西の横綱コシヒカリ」ともいわれ、ひと昔は、関東ではお米の代表的ブランド米であった宮城産「ササニシキ」。コシヒカリに比べ、サラッとした食感が特徴。口の中でフワッとほぐれる感じがあり、握り寿司のシャリとしては最適といわれ、今でも有名寿司店では愛用してところも多い。しかし一般家庭では、最近、ほとんどその名前を耳にすることはない。それを物語るように、ピーク時は全国2位だった作付け面積も宮城県でさえ、全体の約8%と低迷している。

 今、宮城県を代表するお米といえば「ひとめぼれ」。県内で作付けされているお米の約80%(全国ではコシヒカリに次いで2位)を占め、完全に「ササニシキ」を凌駕している。

 宮城県の米穀農家が、作付けを「ひとめぼれ」へと移行する背景には何があったのか? 今の「ササニシキ」の現状なども含め、宮城産米の歴史をひも解いていく。

食味より多収量が求められたササニシキの育種


ササニシキ育成中の古川農業試験場職員(左から末永氏、髙嶋氏、武田氏、二人おいて佐藤氏)
 ササニシキの育種が始まったのは、昭和28年(1953年)。当時は米不足もあり、味や品質より収量の多い米が求められ、大崎市(旧:古川市)にある宮城県古川農業試験場でも、それに沿った育種が行なわれることに。また宮城県は当時、米と麦の二毛作が行なわれており、麦が収穫を終えた6月に田植えができる晩植の品種が求められていたのである。

 ササニシキの親は、ササシグレとハツニシキ。ササシグレは収量性が高かったが、いもち病に弱い、丈が長いため倒伏しやすい、見た目の玄米品質が悪いなどの欠点をもっていた。この欠点を解消するために選ばれたのが、ハツニシキ。ハツニシキは晩植向きで、収量、耐病性、耐倒伏性、品質に関して、ある程度の合格点をもらえるが、飛び抜けた特長はない品種だったのである。

 このハツニシキは農林1号と農林22号を親にもつ品種。実は、この親の組み合わせからコシヒカリが生まれている。ハツニシキとコシヒカリは、姉妹品種なのである。

「兄弟でも、性格や器量が違うのは、人間でもお米でも同じこと。まして、お米の場合は、同じ両親の掛け合わせから生み出される数多くの子どもたちでも、目標に沿って何代にもわたって選別が繰り返されるわけですから、選別する人、その目標によって、その性格が大きく変わってしまうのは、当然なことなのです」

 長年にわたって、宮城米の育種に携わってきた宮城県古川農業試験場・永野邦明副場長は語っている

 

試験田でササニシキを育成中の末永氏
 同じ姉妹でも、コシヒカリはのちに美人米として知られるようになり、ハツニシキは平凡な器量、でも次の世代への掛け合わせには重要な役割を果たす米となったのである。

 ササニシキの育種目標は、昭和40年代初頭には二毛作がなくなったため、晩植である必要がなくなるなど、マイナーチェンジされながら進められたそして、ササニシキは約10年をかけ、品種の性格を固めていく。

「ササニシキの一般田での栽培は、昭和38年(1963年)に始まりましたが、育種作業はスムーズに進んだと伝わっています。それだけ安定して収量性が高い新しい品種が、早急に求められていたということだったのでしょう」と永野副場長は語っている。

 実際に作付けした結果でも、ササニシキは、親のササシグレより倒れにくく安定して収量も多かったことから、急激に宮城県を中心に作付け面積を広げていき、平成2年(1990年)にはコシヒカリに次ぐ全国の作付け第2位にまで拡大していくことになる。









 

高収量だけでなく、食味に関しても好評価が。しかし……

 昭和42年頃(1967年)から米余りになると、昭和44年(1969年)には「自主流通米制度」がスタート。それ以降、おいしい品種や品質の良い米を作る産地の米は、政府米に比べ高値で取引されるようになり、消費者も品種や産地を選んで米を購入するように。この時から、「食味」と「品質」に対する考え方が大きく変化したのである。


旧古川農業試験場

 しかし、安定した高い収量を目的に作られたササニシキだったが、コシヒカリのようなモチモチ感はないものの、サラッとした食感で、白身の刺身のような和風の料理、冷たいおかずにも合うなどの特性をもつ良食味米としての評価も合わせて受けていたのである。だからこそ、作付け面積が全国第2位まで伸びたといってよい。

 また、今でこそ「ササニシキを育てられたら、米農家として一人前」と、栽培方法が難しい品種の一つに挙げられているが、収量の変動が大きかったササシグレなど、以前の品種に比べれば、作りやすい品種だともいわれている。

「地域差がありますが、実際には倒伏しやすいコシヒカリに比べ、作りやすい品種でした。今はコシヒカリの栽培方法が確立されて、作りやすくなっています。また、今の主流品種などに比べれば、確かに栽培しにくいとはいえるかもしれませんが……」と、当時を振り返りながら永野副
場長は語っている。高収量、良食味米としての評価もあり栽培しやすい――時代背景的にはササニシキは、偉大な品種だったといえるのだ。

 しかし、育種を担当する古川農業試験場としては、ササニシキが偉大だったための悩みを抱えることになっていた。新しい品種の誕生を望むインセンティブ(意欲向上のための誘因)が、まったく働かなかったので、新品種の育種がないがしろにされ、ササニシキの改良(マイナーチェンジ)に力が注がれていた。

 その状況に変化をもたらしたのが、昭和55年(1980年)、東北地方を襲った大冷害だった。宮城県全体としては、作況指数は79で、三陸沿岸では作況指数が10以下という大凶作に見舞われた。そこまでの影響はなかったが、翌56年、57年と冷害基調が続いたため、「これはまずい。冷害に強い品種を育種しなくては」と、いっきに冷害に強い新品種の要望が高まったのである。

 

宮城県の米農家には「ひとめぼれ」の食味を敬遠する人も!

 昭和55年(1980年)の大冷害では、コシヒカリが冷害に強いことが証明されている。そこで、ササニシキとコシヒカリの組み合わせも検討されたが、どちらも耐病性(いもち病に強い)は弱く、改良の余地がなかった。いろいろと検討していく中で選ばれたのが、コシヒカリと初星の組み合わせだった。

 初星は愛知県で生まれた品種。二重丸こそないが、耐病性、耐倒伏性、耐冷害性、食味など、すべてにおいて中の上の品種。栽培のしやすさもあったので、「これでコシヒカリの弱点をカバーできるのでは?」と、昭和56年(1981年)から新品種の育種をスタートしている。耐病性や耐冷性なども視野に入れていたが、時代背景的には、ササニシキの育種目標にはなかった良食味米であることが、重要な目標案件になっていた。

 昭和60年(1985年)には、ほぼ品種として固まり、昭和63年(1988年)の冷害では、耐冷性も実証されている。そして、農家の田んぼを使った2年間の現地試験を含む3年間の試験栽培を経て(国の制度で義務化)、平成3年(1991年)からは、宮城県だけでなく、福島県、岩手県の農家で一般作付けが開始されることに。
 そして、この東北143号は、同年「ひとめぼれ」と命名登録されている。この名前は、一般公募がなされ、応募総数約3万通の中から県庁の命名審査会でトップに選抜したものだった。すでに「あきたこまち」などという変わったブランド名もあったが、地名も米の特徴も入っていない名前は、ある意味斬新だったという。


ひとめぼれ育成風景

「私などは、その名前を聞いたとき〝エッ〟と思いました。国の予算で品種育成をしていたので、国の判断を仰がなければいけません。そこで第5候補まで上げて国の命名審査会に臨んだのですが、意外とあっさりと通ってしまいました」と、永野副場長は笑う。

 晴れて「ひとめぼれ」となった東北143号だったが、平成3~4年の2年間は、宮城県の米農家は静かに見守っている状態で、反応は芳しいものではなかった。

「宮城の農家の中には食味が粘り過ぎると、敬遠する人が多くいました。かえって、福島や岩手での評価が高かったかもしれません。そのため当初は、良食味米として範囲を限定して作付けを行っていました。ところが……」
 平成5年(1993年)に、東北地方は再び大冷害に襲われ、最終作況指数は、東北全体で56、宮城県では37と、県内のササニシキ栽培農家も、未曽有の被害を受けたのである。また、九州も台風、大雨などの被害を受けており、稲作の全国作況指数が74という、近年にない水準まで低下。米の備蓄は底を尽き、米の販売価格は高騰。日本と同じ短粒種のアメリカ(カリフォルニア米),中国(シャオチャン米),長粒種のタイ米などが緊急輸入され、「平成の米騒動」とまでいわれた。外食チェーンにもタイ米が使われ、はじめて長粒種の米をみたという人も多かったのである。 

 この状況を目の当たりにし、今まで新品種「ひとめぼれ」の作付けには消極的だった宮城県内の農家も、態度を一変。我も我もと争うように作付けを希望し、一般作付けが開始されたわずか3年、平成6年(1994年)には、ササニシキの作付け面積を超えるという結果につながったのである。

ササニシキとひとめぼれ、両方の良さを継承したささ結誕生


ササニシキ顕彰碑




 わずか3年での大逆転劇の影には、大冷害があったことは否めない。また作付けを始めた農家の中にも、「食味に関しては、こんな粘る米はいや」という人も多かったのも事実だ。しかし、一般的には「粒も大きく見栄えもよく、粘り、ツヤ、香りなどのバランスがよいので、どんな料理にも合う」と、ひとめぼれは高評価を得て、どんどん作付け面積を広げ、東北では第1位、全国でも第2位になっていくのである。

 そんな中、今でもササニシキにこだわりをみせる農家もいる。また、寿司職人の中には、「ネタの味を引き立てるにはササニシキ」とこだわる人が多い。
「寿司に関しては、ササニシキにこだわる人が多いのも事実。さっぱりした食味がネタを引き立てることもありますが、米を変えると、寿司屋が長年培ってきた酢の配合も変えなくてはならないなどの事情もあるようです」と、永野副場長はいう。しかし、それも寿司職人が店独自の味を守るために、ササニシキを選んでいることに変わりはない。






 

ササニシキ顕彰碑の文



 作付け面積が減り、一般的にはその名前を耳にすることは少なくなってきたが、未だにササニシキの食感や食味は、根強い人気を誇っているのである。

 そしてササニシキという偉大なブランドを継いだ、ひとめぼれも順調に成長してきている。しかし、そのような状況に甘え、古川農業試験場はここ20数年間、新品種の育成に力を注がなかったわけではない。




 


  左から「ささ結」「ササニシキ」「ひとめぼれ」



ササニシキとひとめぼれの組み合わせで交配を行い、それぞれの特性を活かし、さらに一般家庭での水加減、火加減など気にせずに、美味しいごはんが味わえるという炊飯米特性を重点に選抜した「東北194号」の育種を推し進めていた。平成22年(2010年)に品種番号のまま、品種登録。県の奨励品種として、平成27年(2015年)から一般作付けが開始されている。「あまり量を獲ると食味を落すことにつながりかねないので、あまり量を採らない栽培方法がとられています。試験栽培時から長年、実際に地元の寿司屋さんに使ってもらってきましたが、〝ササニシキ的食味〟と評価は上々。肉など脂がのったおかずに合うコシヒカリとは違い、知らず知らずのうちに、ごはんが進んでいるというササニシキ系の食味、また、冷めたときの味わいがいいのも特徴ですね」と永野副場長は、自信をもって東北194号の特徴を説明してくれた。

 そして愛称的な品種名がないまま、大崎市役所が付けた「ささ結(むすび)」という独自の登録商標で、今年(平成27年)からで売り出されている。

「2~3年後には、プロ好みの味を家庭でも気軽に楽しめる米として、認知されたらと思っています」と永野副場長は、これからの抱負を語ってくれた。

 そして、彼は究極の宮城産米の楽しみ方として、ひとめぼれ、ササニシキ、ささ結の3種を自分の好みに合わせ量を調整して作る、オリジナルの「マイ・宮城産米」を推奨している。いろいろなバリエーションの食味が楽しめるというから、機会があったら、ぜひ試してみたいものである。