新潟コシヒカリ 成長の軌跡 コシヒカリが、新潟で「米の横綱」として耀きを放つようになったファクター

コシヒカリの人工交配は、戦時下の昭和19年、新潟県農事試験場で行なわれた。昭和23年から、福井へと引き継がれ、昭和31年に品種登録され、「コシヒカリ」と命名されている(詳しくは本サイト日本お米紀行第1回「コシヒカリ誕生秘話」参照)。しかし当初は、新潟県でも今のように人気ブランド米として扱われたわけではない。「農林1号」や「農林21号」に代わる基幹品種として、当時の農業者の期待は、必ずしも高くはなかったのである。

栽培法でカバーできる欠陥は致命的な欠陥にあらず



のちにコシヒカリと命名される越南17号は、昭和28年から全国22県で試作が行なわれている。しかし、戦後食糧難以降の増産運動を背景に「品質・食味は良いが、倒伏やいもち病に弱く、多肥栽培に向かない」という指摘する試験地が大半を占めていた。また品種育成が行なわれた福井県、そして石川県、富山県は、「こんなもの、採用してどうするんだ。品種になるものではない」と、傍観の立場をとっていた。
新潟県でも農業試験場の6ヶ所の他、農業者の協力のもと、約30カ所で現地比較試験が行なわれた。同年は、作付けの主力が、それまでの農林1号から越路早生(耐病、耐倒伏性が高い)への移行時期にあったこともあり、農業者の評価は、他県同様けっして芳しいものではなかった。
当時を振り返り、越南17号の奨励品種の選定試験と栽培試験を担当していた、新潟県農業試験場の國武正彦(のちの試験場長)は、次のように語っている。

 

新潟県農業試験場の庁舎(昭和16~48年)
「日本人には、うまい米を食べるという伝統がある。しかし、戦中戦後から昭和30年代までは、食糧難で多収を求められる時代。収量が落ちても美味い米を銘柄化したいといったら〝農林省から、米を差別化するとは、何ごとか!〟となじられるのが現実でした。しかし、やがて米は食味・品質で差別化される時代がくるに違いない。来る時代のためには、品質・食味に優れた新潟米を確立する必要があり、それには越南17号は、どうしても切り捨てられない、ぜひ県の奨励品種に、という思いが膨らんでいったのです」
栽培してみると、その思いとは裏腹に、越南17号は稈長(稲の丈)が長く、穂が重く倒れやすい、しかもいもち病に弱いという現実に直面した。当時の稲は、倒伏すると穂から芽を出して、米としての価値が著しく落ちる品種がほとんど。そして、収穫期の試験圃場では、越南17号が一面に倒伏している光景が広がっていたのである。
試験場内のコシヒカリの圃場で関係者間の検討を行ったとき、内藤という若い技師が倒れた稲を刈り取ってみると、なんと越南17号は倒れていても稲がほとんど傷んでおらず、穂の実りも充実。彼は、「倒れた稲が生きている」と、興奮して叫んだ。


昭和30年頃の國武正彦氏(左から三番目)と当時の研究員の面々

それを受け、國武も実際に圃場で、その状況を確認。すぐさま場長室に入り、杉谷文之場長に報告を上げた。杉谷場長は、「栽培法でカバーできる欠陥は致命的欠陥にあらず」と判断し、越南17号を新潟県の奨励品種に申請・採用することに決定。そして、県の農産課の同意を得るに至ったのである。
しかし、品種登録、県の奨励品種としての採用には、さらなる壁が立ちふさがっていた。昭和30年、北陸農業試験場主催による北陸地区4県品種会議では、「ほぉー、新潟は県の奨励品種にするんだ」と担当者レベルに揶揄されたが、「採用は新潟県の意思」と主張し、北陸の作物部長からは、「お手並み拝見とするか」といわれたという。
それは、農林省新品種候補審査会においても同様だった。「いもち病に弱い」「倒伏しやすい」は大きな欠点であるとして、農林省の品種登録に向けた議論は紛糾。しかし、新潟県の奨励品種に採用するという強い意志と、欠点は栽培技術で克服するという熱意が勝り、さらに千葉県でも奨励品種に採用されることとなり、越南17号は「農林100号」の番号で登録されることが、何とか決まったのである。


越の国に光輝く稲穂
「農林省の育種家が〝新潟のS場長とK室長が、およそ品種にならない虚弱系統を登録しようと動いたことは、品種改良の道を暗いものにした〟とまで酷評した話が、のちに私にまで伝わってきました」と、國武は語っている。
品種登録された越南17号の品種命名権は、本来福井県にあったが、こんな経緯を辿ったこともあり、新潟県に委ねられることに。そこで、杉谷場長は國武に、この品種に相応しい名前を付けるようにと指示を出した。たわわに実る稲穂の黄金色の美しさで、越の国の平野を彩りたい……そんな思いを込め、國武は越の国に光り輝く稲穂=コシヒカリと命名したのである。




 

県の政策変更によろめいたが、すぐに立ち直った新潟コシヒカリ





魚沼コシヒカリ発祥の地の碑(南魚沼市)
昭和31年に新潟県の奨励品種になったコシヒカリであったが、翌年以降の作付面積を見ても、新潟県の主力品種にはなっていない。昭和38年からは、越路早生に次いで2位となってはいるが……。
しかし、豪雪地帯で出稼ぎの多かった南魚沼地区の一部農業者の間では、「コシヒカリの食味は、魚沼稲作の救世主になるかもしれない」という声が上がり、徐々に定着する気配を見せていくことに。
魚沼地区は、周りの山々から流れ出す有機物汚染のないが冷たい融雪水が多い、生育初期の養分供給が少なく生育過剰を抑える泥炭層の堆積土壌、著しい昼夜の寒暖差など、耐冷水性があり、老朽化適応性に優れていたコシヒカリの栽培にとっては、有利な条件が揃っていたことが幸いしたといってよい。また、稚苗の集中大量育苗システムの開発普及による田植え条件の改善も、有利な条件となった。
なぜ、國武や魚沼の農家が、コシヒカリの食味・品質にこだわったのかという点については、いまでは考えられない新潟米ならではの背景があった。
実は、昭和の初めまで「新潟米」は、鳥すらもまたいで通る「鳥またぎ米」といわれていた。その中で農林1号が育成され、昭和6年以降、ようやく新潟米は、食味の良い品種が中心となった。しかし戦中戦後の食糧増産時代、とりわけ全国的に戦後の食糧難のため、米の増産が求められ、収量の多い品種がもてはやされた時代となっていった。
その中で國武たちは、やがて来る時代に対する対策を考えたのであった。
昭和37年、当時の新潟県知事は、官民一体となって、美味い米づくりを取組むように指示。県を旗振り役に「日本一うまいコメづくり県民運動」を開始している。運動の中では、コシヒカリなど食味の良い品種への切り替え、倒さない稲づくり、「新潟米」と描かれた赤票箋を、コシヒカリなどの1等米に付ける品質保証などに取り組んだのである。
「まずは、戦前から品質の良いとされていた山形米を超えることを目標に、栽培技術などの改良を図っていました」と國武は当時を振り返る。
 

開花期のコシヒカリ
その結果、コシヒカリの作付面積は、翌年には2万ヘクタールまでに拡大。
実際に栽培を開始してみると、中越、刈羽、魚沼のようにコシヒカリの栽培に適した地区を除くと、倒伏を防ぐために肥料を3~4回に分けて与えなくてはならないなど、栽培は難しかったが、昭和40年には、品質は目標としていたレベルに近づいていった。
ところが、昭和40年前後の全国的な米不足に対応するため、知事が交代した新潟県は、昭和42年からは量を重んじる「米100万トン達成県民運動」を展開することになったのである。味は良いが収量の少ないコシヒカリ系の品種は、多収の品種へと切り替えられ、赤票箋、新潟米コシヒカリの作付面積は、2万ヘクタール台で低迷。主力品種から見放されかねない危機を迎えたのだ。




 

新潟は機械化によって、コシヒカリを目盛り付きの品種にした

昭和40年前後の米不足は一時的なもので、昭和42年頃から日本は本格的な米余りの時代に入り、国は昭和44年に自主流通米制度をスタートさせている。それによって、コシヒカリにとっての最大の危機は去り、遂に國武が思い描いていた時代が到来することになる。品質・食味の良い米は、政府米に比べ高値で取引されるようになり、消費者も品種や産地を選んで米を購入する時代になったのである。また一方、昭和45年からは米の生産調整が始められた。
新潟県は昭和45年から良質米生産の「新潟米生産推進県民運動」を展開し、消費者の嗜好が米の生産に反映される状況の中、本腰を入れ、再び良質米生産を推進する方向へと舵を切ったのである。しかも、自主流通米の需要に応えるためには、供給量の確保も必要になってくることに。コシヒカリの作付面積は、昭和45年には、2万6千ヘクタールまでに回復したが、さらに作付面積を増やすためには、難しい栽培技術を県内の農業者に普及することが急務になったのだ。
県の政策は揺れ動いていたが、國武のコシヒカリを普及させたい思いは、県の奨励品種に選んだ時から、少しのブレもなかった。その思いを実現するために、魚沼など県下13ヵ所の農業家たちに委託して、機械化育苗、施肥、粒厚米選などの栽培技術改善の研究を進めていた。人の手で行なっていた肥料散布、そして田植えの機械化、コンバイン収穫の際の生ワラすきこみなども積極的に進めている。そして、杉谷場長の「栽培法でカバーできる欠陥は致命的欠陥にあらず」の名言通り、栽培方法の改善を図ることで、機械化に適した稲づくりを可能にしていったのである。


南魚沼コシヒカリの刈取風景
それらをいっきに昇華させ、コシヒカリの普及に貢献したのが、北陸4県共同のプロジェクト「良質米生産の早植え・安定機械化制御技術の開発研究」だ。「日本の1ヵ所くらいは、良質米生産技術開発の拠点が欲しい」と農水省にいわせしめ、昭和49年にスタートした。國武を主査に、3期9年間にわたりコシヒカリの栽培技術についての研究が、大規模予算付きで進められることになった。
これらのプロジェクトでは、この時期何をしたら良いか、栽培のポイントを示したコシヒカリ栽培暦、農業者が葉の色から稲の栄養状態を見極め、適切な量の肥料散布を可能にしたカラースケールなどが生まれ、コシヒカリの安定生産に大きく貢献している。
「安定生産にとって大きかったのは、昭和52年に登場したいもち病の予防剤普及と、やはり機械化ですね。コシヒカリ栽培の場合、機械化は省力のためというより、規格化を意図としたもの。手先の熟練度がなくても、機械の目盛りを調整することで栽培が容易になるように図ったんです。長岡が耕作機械の街だったので、いろいろなことが可能になったといえますね。私が農業試験場長になってから、機械化による良質米作りを見学にきた北海道の場長からは〝新潟は機械化によって、コシヒカリを目盛り付きの品種にしたな〟といわれました」
この北海道農業試験場長の言葉は、栽培は難しいといわれたコシヒカリを、誰にでも栽培できるように研究、奔走した國武に対する最大の賛辞といってもいい。この新潟県が先鞭をつけた機械化は、能率優先の省力化でなくて、精密化、制御化をするという考えにあった。そして機械化による栽培技術が定着し、コシヒカリも全国で栽培されるようになっていったのである。
 

長いトンネルを抜けると、そこは光り輝く稲穂波だった

正月、㈱大阪第一食糧の正面玄関に飾られる米俵。
國武も加わって行なわれた新潟コシヒカリの普及のための活動は、栽培技術の改善や機械化に留まってはいない。銘柄米として流通量を増やすために、当分は宮城や山形と競ってムリに首都圏に進出を図ることはせず、品質に厳しい関西圏に目を向けた施策を講じた。
「関西市場に進出するにあたって、新潟県産米改良協会連合会の幹事を兼任している際、大阪第一食糧事業協同組合(現㈱大阪第一食糧)の前田卯之松専務理事(のちに理事長)からいわれた言葉が、大きく影響しました」と、当時を懐かしむように國武は語っている。生産現場を回りながら聞いたその言葉とは……。
「自分は米屋のせがれ。米俵を肩に担げば、その中の米の質が分かる。俵がきれいなものでなきゃ、中身もあかんな。
また、難波商人は、ええもんができよったからといっても、はよぅは飛びつかへん。10年、20年と商売になるって踏んで、はじめて手を出すもんや」
米俵のできは、その稲の茎の強さを表わしているし、10年、20年と安定したものを提供できないものは、関西では商売にならないというのだ。 その言葉を胸に、國武たちは茎を短く強くするための施肥診断技術の改善を進め、安定した生産を確保できるという見込みが立ってはじめて、新潟の団体は大阪への新潟コシヒカリ売り込みをスタートさせている。
コシヒカリは、軟質米に硬質要素を加えた粘弾性のあるうまい米。関西では、硬質米が好まれる傾向にあったので、プレゼンの際は、水を少な目に炊いて、試食してもらうなどの対策も施した。その甲斐があって、新潟コシヒカリは関西圏の市場へと浸透し、全国へと広がっていったのである。
その中で、さらに独自の動きを見せたのが、魚沼コシヒカリだった。
「魚沼は、一農業者当たりの栽培面積も狭いし、豪雪地帯であるため出稼ぎ期間も長いなど、平場(平野部)とは違い、稲作環境としては悪かったのは確か。そのため、共同育苗施設を利用したり、一斉田植えなどを行ったりと、苦労も多かったと思います。しかし、コシヒカリの生育条件にはピッタリだったこと、また、奨励品種の試験当時から思い入れが強く、栽培技術を磨く努力をしてきたことが、新潟の平場で収穫されるコシヒカリとは、一線を画した味のブランド米を確立したといっていいかもしれませんね」と、魚沼の農業者とも一緒に栽培技術などの研究してきた國武は、当時を思い出しながら語っている。

長いトンネルを抜けると、そこは黄金色に光り輝く稲穂波

南魚沼産コシヒカリのごはん
コシヒカリについて語らうために、國武のもとを訪ねてきた首都圏のある人は「川端康成は〝長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった〟と書いていますが、いまの時代、川端が米の成熟期に新潟を訪れていたなら、〝長いトンネルを抜けると、そこは黄金色に光り輝く稲穂波だった〟と書いたかもしれませんね」と笑っていたという。

そのエピソードを語ったコシヒカリの名付け親である國武は、一面光の海となって広がる稲穂たちを想像しているのか、その顔は、満足感と優しさに輝いていた。
最後にコシヒカリに思いを寄せた國武の短歌を紹介したい。
木枯しが 吹けば色なき 越の国 せめて光れや 稲コシヒカリ(昭和30年)
きはやかに わが影映し 熟れそうで 光り耀く 稲コシヒカリ(平成27年)


(文中敬称略)