つや姫のブランド戦略を生んだ
山形の米づくり運動と、はえぬきの取組み

 山形県、特に庄内地域は古くから米どころとして知られ、良質米の産地としても誇り高い伝統がある。しかし近年になって、その伝統も新潟、秋田、宮城などに押され気味の感が否めない。

「プレミアムつや姫」の販売PR活動
それぞれの県がコシヒカリ、あきたこまち、ひとめぼれを全国ブランド米に成長させたのに対し、山形県が「ユメのコメ」という謳い文句でデビューさせたはえぬきは、デビューに後れを取ったこともあり、そのブランド戦略は不調に。食味ランキングは21年間連続で特Aを達成しているが、家庭米市場での認知度は低く、主に業務用の米に甘んじているのだ。
 

山形はえぬき 米袋イラスト画像
しかしながら、はえぬきのデビューを契機に山形県では、積極果敢な「米づくり運動」が継続して展開されるようになり、生産者の意識は少しずつ「量より質」、「品質・食味重視」へと変化。それによって、「米どころ・山形」評価向上への機運が盛り上がってきたのだ。
 その山形県が、さらなる巻き返しを図るために満を持して登場させたのが、つや姫。はえぬきで培った生産対策・管理を武器に、その戦略の一部の不調を反面教師に、緻密なブランド戦略を展開。徐々にではあるが、認知度、生産量も上がり、今では魚沼コシヒカリに次ぐ価格で堅調に取引され、米どころ・山形の新しい姿がみてとれるのである。
 

現在の良食味米の歴史は、
庄内地域の民間育種家抜きには語れない!

 山形県の庄内地域で米づくりが本格的に始まったのは8世紀、出羽の国が置かれてからのこと。豊臣秀吉の時代には、庄内米が御用米に選ばれた記録も残っている。

山居倉庫の外観
江戸時代に入ると、庄内藩主酒井忠勝が稲作を奨励したことにより、増産に拍車がかかり、庄内地域は米の一大産地として全国にその名を知られるようになった。
 また、酒田には幕府への献上米を保管する多くの倉庫が建てられ、1649(慶長2)年に米座が設けられると、最上川を利用する奥羽諸藩の米倉庫も建ち並ぶようになる。そして東西の廻米航路が開かれた酒田港は、大坂の堂島などと並ぶ米取引の中心地となり、その繁栄ぶりは、井原西鶴の『日本永代蔵』にも記されているほどだ。
 そんな背景をもつ庄内地域は、江戸の昔から農家の人々が切磋琢磨しながら、米づくりに情熱を傾けてきていた。その情熱は明治以降にも引き継がれ、多くの民間育種家を輩出している。これは他の地域では例を見ないものであり、その代表的人物といえるのが、阿部亀治だ。彼が明治26年に創選した亀の尾は、明治末から大正時代にかけて、国内はもとより朝鮮半島や台湾でも栽培されている。そして大正時代には、神力、愛国とともに日本水稲優良三大品種に数えられた。







 
試験田での「亀の尾」の稲
 現在でも、わずかながら栽培されている亀の尾だが、当時の品種としては食味の評価が高く、多くの品種改良の交配母本にされている。そして、その子孫品種・陸羽132号を通じて、コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまちなど、多くの良食味米品種に影響を及ぼすことに。まさに、現在の良食味米のルーツといえる存在なのだ。
 また大正2年には、同じ庄内町の森屋正助が育成した森多早生が登場し、農林1号を通じて、同じようにコシヒカリ、ササニシキなどへと引き継がれていく。
 現在の良食味米の歴史は、明治・大正時代の山形県庄内地域の民間育種家の功績抜きには語れないのである。







 

山形県農事試験場庄内分場(旧館)外観

 その後、大正9年には山形県農事試験場庄内分場が開設され、庄内在住の民間育種家10数人との間で、品種改良懇談会が作られている。その懇談会を中心に、官民一体となって、庄内地域の風土に適応できる稲の品種改良・育種などが推し進められた。懇談会は、戦時の供米が始まる昭和14年まで、約20年間続けられ、ここから福坊主、京錦、イ号、大国早生、山錦などの品種が生まれているのである。









 

同じ県でありながら庄内地域と内陸地域では、
採用品種に関する方向性が違っていた

 戦中・戦後になると、山形米の状況は一変。庄内地域でも、食味などは求められず、戦後間もなくまでは、肥料が少なくても育つ日の丸、大国早生、昭和30年代には多肥多収の農林41号などが主力品種になった。事情は他の米どころと同じで、「とにかく、腹を満たしたい」が優先され、多収品種がもてはやされたのである。
 その後もしばらくは、多収であることが優先されササシグレ(ササニシキの親にあたり、東北地方で第1位の作付面積を誇ったこともある)、ハツニシキ(ササシグレとともに、ササニシキの母体となった品種)、フジミノリ(早生で多収性、耐冷性の品種)などが主力品種になっている。ササシグレは、食味だけならササニシキにも負けないといわれたが、旧食管制度の下、消費者にはすべてが混米で供給されたため、その食味はあまり知られていない。
 米づくりに情熱を燃やしていた庄内地域の篤農家にとっては、まさに受難の時代だったのである。
 そして、昭和40年代に入ると、山形県で作付けされる主力品種も、大きく動いていくことになる。しかし……。
「青森県において、津軽地域と南部地域は文化がまるで違うように、山形県もこと米づくりに関しては、別の県と捉えられるほど、庄内地域と内陸地域では大きな違いがありました。経済連は山形県経済連と庄内経済連に、全農も全農山形と全農庄内に分かれていたのです。また、両者が一緒になったのは、平成20年4月1日のこと。昭和40年当時は、それぞれが独自の動きをしたことは、容易に想像できます」
 と、山形県農業総合研究センター・水田農業試験場の結城和博場長は、当時の状況を説明している。


山形農総研水田農試 結城和博場長

また当時は、県立農業試験場の水稲育種を担当する部署が、庄内に分場、尾花沢に試験地と2つあり、それぞれが地域の気象や立地条件に適した育種を役割分担して行っていたというのだ。
 昭和39年に、良食味米として評価が高かったササニシキが県の奨励品種に採用されると、庄内地域ではすぐに、それまでの多収品種からの切り替えが行なわれた。翌年には作付面積で1位になり、昭和56年には90%を超えるまでに伸ばしている。
 一方内陸地域では、あいかわらずでわみのり、フジミノリ、キヨニシキなどといった多収品種が主力になっていた。
 

 当時(昭和50年)の山形県の水田面積は、10万1900ha。庄内地域3万7500haに対し、内陸地域は6万4400haと倍近くの面積があった。そのため昭和49~52年の間は、県全体としてみると、キヨニシキがササニシキを凌駕し、作付面積、生産量とも第1位になっている。
「昭和44年に自主流通米制度がスタートしていますが、庄内経済連はササニシキ、山形県経済連はキヨニシキを押すなど、山形県が一枚岩でないことに、批判もあったと聞いています。方向性が違う品種を〝山形米〟として推奨したことで、市場関係者も混乱したようですね」
 こう語った結城場長だが、彼ものちに両者の方向性の違いに、戸惑ったことが多少なりともあったようである。

庄内ササニシキは、自主流通米御三家の一つに!

庄内平野の空撮画像

 山形県の庄内地域と内陸地域の大きな方向性の違いは、地質や気象条件の違いが背景にあったといわれている。その違いは、ササニシキの栽培にも現われていた。
 ササニシキは中生の晩品種であるが、平野部にある庄内地域では、山から吹き出す「ヤマセ」(最上川峡谷から庄内平野に吹き出す風は「清川ダシ」と呼ばれる)という神風のおかげで、稲の成長がほど良く抑制され、短稈、短穂、多穂数の稲作が可能であった。
 一方、盆地や中山間部に水田が多い内陸地域では、ササニシキは中期生育が不安定で、稈(茎)が伸びてしまい、倒伏しやすく、いもち病にも弱い栽培しにくい品種として扱われたのである。しかし、自主流通米制度スタート以降、消費者の嗜好が良食味米に傾いていったこともあり、徐々にではあるが、ササニシキへと移行していくことに。
 

 ちなみに「ヤマセ」は、現在では、三陸沖より内陸に吹き込んでくる北東気流を指すことが多く、東北・北海道地方の凶作の原因になる悪風とされているが、元来は、東北の日本海側で山から吹き下りる風についていわれていたもの。江戸時代、この風は上方に米などの荷を積みだす際、順風となるため、庄内地域では神風として扱われた。
 当時の庄内地域で作られていたササニシキは、地域に適した品種であったこと、生産者の弛まない努力によって技術開発が進んだこともあり、品質、食味とも高い評価を得て、新潟米、宮城米と並び、庄内米は自主流通米発足とともに「御三家」と呼ばれた。生産量は70万tの新潟県、50万tの宮城県に比べ、庄内は25万tと圧倒的に少なかったのに、そう呼ばれたことは、それだけ庄内米の中核を担ったササニシキの品質評価が高かったことを裏付けている。
 庄内地域の生産者たちが、米づくりの情熱と伝統に裏打ちされたプライドを取り戻した時期といってよい。しかし県としては、山形米ではなく、庄内米として認知されたことは、「痛し痒し」の部分もあったようである。
 それ以降、カントリーエレベーターなどの貯蔵設備の整備が進み、庄内地域だけでなく山形県産のササニシキの品質は、より均一で、安定した評価を得られるものになっていく。しかし、順風満帆の時期は、長くは続かなかった。昭和55年に、大冷害が東北地方を襲ったのである。

庄内のカントリーエレベーター(外観)

 三陸地方を中心とした太平洋沿岸地域に、悪風名高い「ヤマセ」が吹き荒れ、稲が育たず、三陸の水田地帯の作況指数が10以下という大凶作になった。宮城県産ササニシキは大ダメージを負うことになったのだ。
 しかしこの東北大冷害では、山形県産ササニシキはほとんどダメージを受けなかった。庄内地域では、むしろ作況指数が平年を上回っている。そのため、庄内をはじめ山形の生産者たちは「ササニシキでいける」という思いを、さらに強く抱くことになったのだ。
 実は、この思いこそが、のちに消費者市場での山形米の低迷につながっていくことになろうとは、誰も想像だにしなかったのである。
 

庄内ササニシキの厚い壁も、遂に自壊する時を迎えた

庄内の田園風景(青田)

 東北では、翌56年、57年、58年と冷害基調が続いた。この影響で、首都圏へのササニシキの供給量が減ったことはいうまでもない。安定した供給(流通)量を確保できなかったことは、ササニシキに対する信頼感の失墜につながっていく。米屋の店先の棚には、他の銘柄米が並び、特にその中でコシヒカリ人気が加速していくことになった。
 昭和59年には、ササニシキの生産量は回復したが、需要量が少なくなっており、すでに市場では過剰感すら感じられるようになっている。また、米の卸や流通業者からは、「ササニシキは気象による品質変動が顕著」という厳しい評価が下された。
 そのような状況の中、新潟コシヒカリは盤石の態勢を築いていった。また昭和59年に秋田県があきたこまち、平成2年には宮城県がひとめぼれと、それぞれササニシキに代る主力品種をデビューさせたのである。
 

庄内の田園風景(成熟期)

 一方、山形県は昭和62年に良食味の早生品種・はなの舞(庄内32号)をデビューさせていたものの、生産者の多くは、他品種に活路を見出すことはなく、あいかわらずササニシキの高品質安定多収を追求していたのである。
「もちろん、主力品種の育成が行なわれていなかったわけではありません。尾花沢では昭和10年、庄内でも昭和39年から先輩たちが育種事業を行っていました。しかし昭和39年から約25年間、山形では庄内を中心にササニシキが君臨していたわけですから、その壁は想像以上に厚かったんだと思います。だからこそ、ササニシキに代わる新品種育成に以前にも増して力を注いだことも事実です」
 このように結城場長は語っているが、「ササを超えるものを!」と、育種に情熱を傾けた担当者は、何度も厚い壁に阻まれ、ホゾを噛むような思いをしたようだ。その話を先輩たちから伝え聞いていたのか、彼の顔は心もち暗かった。
 そして平成4年、遂に山形県でもササニシキという厚い壁が、自ら崩壊する事態が訪れる。
 

庄内の田園風景(登熟期)

その年、庄内ササニシキに白未熟粒が発生。一等米比率が50%以下にまで落ち込んでしまったのである。原因は出穂後21~30日の平均気温が24℃以上の高温状態での登熟、そして、一穂籾数が70粒以上という過剰な籾数が原因だったといわれている。
 市場では、ササニシキ自体にすでに過剰感があり、平成2年の自主流通米入札価格では、庄内の生産者がプライドを持って熱心に栽培していたササニシキだったが、細々と生産を続けていた秋田や宮城のササニシキより低い評価に受け、価格自体も低くなるという衝撃的事件が起きている。
 それにさらなる追い打ちをかけ、いっきに庄内ササニシキ神話を崩壊させたのが、白未熟粒だったのだ。
 

庄内の田園風景(収穫期)

 その巻き返しのため、平成2年から山形(特に庄内地域)の米関係者の注目を集め、期待を一身に背負って、主力品種になるべく登場したのが、食味に関しては文句のつけようもなく、「ユメのコメ」と称されたはえぬき、どまんなかであった。県では両品種のデビューに先んじて、指導機関・生産者団体が一体となって県全体の米づくり運動を展開し、米づくりの意識改革を進めていた。この運動によって、新品種の普及拡大を推進していくのだが、その期待とは裏腹に、苦難の道を歩くことになるとは、誰一人として、想像もしていなかった……。(次号に続く)。
 

【文中敬称略】画像提供:山形県農林水産部県産米ブランド推進課、山形県農業総合研究センター水田農業試験場、JA全農山形